北野農園代表・北野忠清の「農」という字に対する考察
私がIT企業を経て農業を始めてからというもの、目や耳だけでなく、体全体で感じ取る「農」というものの本質について、深く考えるようになりました。とりわけ、自然の向こう側にある「農」というすべてのゆらぎ、あるいは素粒子のように目には見えない世界の動きに意識を向けるようになったのです。このページでは、そんな「農」という言葉の奥深さについて、私の考えをつぶやきたいと思います。
農業とは、小さな命を育て、大きく成長させ、また種を取り、育てるという循環の繰り返しです。それはまるで、太陽が昇って沈み、月が満ちては欠けるように、常に拡張と収縮を繰り返すリズムを持っています。温度や湿度、気温、風も同じで、強くなったり弱くなったりしながら、ゆらゆらと揺れ動いています。そんな自然の営みを見つめていると、目には見えない「世界線」のようなものが常に揺れ動いていることを強く感じるのです。

「農」という字の意味を探る
私が農業を始めた頃、「農」という字が持つ意味について考えました。広辞苑を引いてみると、「農」という字は「人がハマグリを使った農具で土を耕している様子」だと説明されていました。しかし、私はその説明に納得できませんでした。
特に、「農」という字が**「曲」と「辰」という二つの要素**で成り立っていることに注目しました。「辰」は「龍・気」にも通じ、中国の思想が源流にある文字ですが、なぜ「曲」という字が使われているのか? これが長年の疑問でした。
やがて、宮沢賢治の言葉に出会い、彼の「イネの心がわかる人間になれ」というフレーズが印象に残りました。さらに、季節の流れを「曲尺」のように、時間軸(横)と温度や湿度の変動(縦)で捉える考え方を知ったとき、「曲」という字は、時間と変化の流れを表しているのではないかと考えるようになったのです。まるで音楽の旋律のように、自然の動きは曲線を描きながら進んでいく——その象徴として「曲」という字が使われたのではないか、というのが私の考察です。
「辰」という字の持つ意味
では、「辰(龍)」は何を意味しているのか?
「ハマグリ」は、「蛤(蜃)」と書き、「辰」と「虫」という文字が含まれています。「辰」は古くから龍を意味し、龍は雨を司る神として崇められてきました。ハマグリや貝類は、外的な刺激を受けるとゆらゆらと揺れ動き、水を吐き出す習性があります。この動きが、昔の人々には生命のうごめきや変化を象徴するものとして映り、「農」の持つゆらぎの意味と結びついたのではないでしょうか。
また、「蜃気楼」の語源をたどると、古代の人々がハマグリや貝類が生み出す目に見えない揺らぎを、不思議な現象として捉えていたことがわかります。人間の目では捉えられない微細なゆらぎを感じ取り、それを「辰(龍)」として表現したのかもしれません。龍は水を操る神であり、農業には欠かせない雨や水を象徴する存在でもあります。
このように考えると、「農」という字には、自然の見えないエネルギーを感じ取り、それを活かすことこそが農業であるという古代の日本人の知恵が込められているのではないかと思うのです。

農業とは「命のゆらぎ」と調和し共鳴すること
自然界では、気温、湿度、重力、太陽の動き、月の引力といったすべての要素が揺れ動きながら変化しています。農業もまた、その変化と調和しながら進んでいくものです。私たちが育てる野菜は、そうした目には見えない要素の影響を受けながら成長しています。
そして、農業は命のサイクルを象徴する仕事でもあります。種をまき、育て、収穫し、また種をつなぐ——この営みを繰り返し、未来へと命を受け継いでいく。まさに「農」という字が持つ「曲」と「辰」の意味が、宇宙や生命の流れ、ゆらぎそのものを表しているように思えてなりません。
この考えにたどり着いたとき、日本人が「農」という字に込めた尊い感性に改めて感動しました。そして私は、ただ作物を育てるだけでなく、自然と共鳴しながら農業を営むことこそが、本当の意味で「農と自らが調和する」ということなのではないかと考えるようになりました。
だからこそ、私は月や太陽、気温の変化、そして目に見えない微生物の動きに意識を傾け、それらと調和しながら農業を営んでいます。心地よい空時間を前に進めること——それこそが「農」という営みの本質なのではないでしょうか。
泉州水なす・貝塚澤なす生産者
北野忠清
近畿大学生物理工学部卒
農哲学探究者
